前回の、座禅記事の続きです。
座禅の瞑想は、ひたすら、呼吸の意識を保つというものでした。
まず、慣れるまでは、
「数息観」といって、
ひたすら呼吸を、「ひとーつ、ふたーつ」と数え続けます。
慣れてきて、数えるのが途切れなくなったら、
「随息観」といって、
自然の呼吸を、ただ眺め続けます。
すべての自分を捨てて、呼吸になりきる。
ということだそうです。
今回行った禅堂の特徴は、
老師と、1対1の面談があることだと思います。
だいたい1日おきに、面談をした。
4日目に、老師と面談をしたとき、
「少し、目線が高すぎる。
姿勢もピンとして、力が入りすぎている」
と言われました。
「目線が高いと、あれこれ考えがわきやすい。
事物が発生しやすい」
というようなことを言われました。
今までぼくがやっていた瞑想は、クンダリーニヨガの瞑想で、
チャクラを活性化して、プラーナ(エネルギー)を創り出すものだったのに対して、
座禅の瞑想は、徹底的に、
呼吸以外のすべてを捨て去っていくものだったので、
そっかあ、姿勢からして、本質的に違うのかも。
ということに5日目でようやく気づいたのです。
たしかに、目線を下げて、肩の力を抜くと、
どーでもいいような気持ちになりました。
すべてを放棄して、任せきったような。
そいでも、まだ雑念が全然なくならないので、
6日目に、老師に、
「ちっとも雑念がなくなりません」
と言うと、
「雑念という考えを捨てなさい。」
と言われました。
「何か大発明を思いついたら、雑念と言いますか?
言わないでしょう。
どんなくだらない考えも、どんな高尚な考えも、
ただ、思考が発生するというだけです。
思考をなくそうと思わなくていい。
座禅が熟すと、どんな思考が浮かんだとしても、
それに引きずられず、呼吸に意識をとどめられるようになる。
つまり、何事にも動じなくなるということです。
それでいいんです。
今の座禅を油断せず、続けなさいよ」
と言われました。
そう言われてみたら、
たしかに、初日と比べて、
座禅中も、生活中も、呼吸の意識がとぎれることがほとんどなくなってました。
おしっこしてるときも、自然に呼吸を意識してる自分がいた。
そうかあ、ちゃんと進歩してたんだなと、やっと気がついた。
老師は、
「自分勝手な瞑想をせず、 正しい工夫を続けなさい。
あとは、自分を捨てて、瞑想に任せなさい。」
ということを、よくおっしゃっていた。
これ、深いです。
言われた通りのことを忠実にやりつつ、工夫もし続ける。
やはりねえ、7日間で、大変化というわけには行かなかったけど、
成長できたことは、わりといっぱいある気がします。
・今まで以上に肩の力が抜けた人になった気がする。
・今まで以上に、冷静に、客観的にものを見られるようになった気がする。
・瞑想にすっと入れるようになった。
・瞑想が安定した。
・むだをなくす心。
神戸に戻ってから、瞑想をしたら、
今までより集中力が高まってた気がしました。
これからも、今まで通りの瞑想を続けつつも、
瞑想の中でも、普段の生活の中でも、
座禅で学んでことを取り入れていけると思います。
来年も、どこかで時間をつくって、禅堂にまた行きたいな。
「むだを省く」という禅の文化と、伝統。
純粋に、禅の修行をする、今回の禅堂「朽木學道舎」。
貴重です。
朽木學道舎は、
初心者から、
座禅以外の瞑想をしている人まで、
本気で座禅をする気がある人であれば、誰でも、オープンに、受け入れてもらえます。
何より、老師がすばらしい。
きびしさもあるのだけど、それはやさしさの裏返しで、
誰よりもやさしい。と思う。
自分のことなんかまったく考えていない。(と思う。)
純粋です。
本気で座禅をしたい方は、ぜひ、朽木學道舎へ、行ってみてください。